「耳の隙間」は、ゲッシコンチェルトのベース係である住旗わいかいが、耳管開放症にまつわる実体験と共に、ゲッシコンチェルトに加わるきっかけから現在に至るまでを振り返ってお話しするものです。多くの方にとって、耳管開放症がどのようなものかを知っていただける初めての機会となるかもしれませんが、症状やその程度はひとりひとり様々であり、ここで記されているものは一例であることを予めご了承ください。また症状の診断や治療については、必ず専門医にご相談ください。
こんにちは。ゲッシコンチェルトでベースを弾いている、住旗わいかいです。時々言われるんですよね。
『わいかいって、なんで耳から髪の毛が?』って(笑)。
実はこれは髪の毛ではなくて、エクステンション付きイヤーマフなのです!
どうしてそんなのをしているのかと言うと、色んな事情があって、できるだけこれで耳を保護しているからです。
耳管開放症というのは、読んで字の如く、鼻と耳を繋いでいる耳管が開きっ放しになってしまい、圧力調整ができなくなる症状のことです。これによって自分の声が大きく聞こえたり、耳がつまった感じになったりします。トンネルや高地等で気圧の変化が起こると、耳がつまった感じになることがあると思いますが、それって、あくびをしたり唾を飲み込んだりすると解消しますよね。そうすることで耳管が動いて圧が調整されるのだそうです。でも耳管開放症によるつまった感じは、何をしても解消されないままです。私の場合は、右耳の耳閉感(耳がつまった感じ)や耳鳴りが顕著で、次第に耳の奥の痛みまで発症するようになりました。一般的に原因として考えられているものの中には特に当て嵌まるものがなく、今でも原因は不明です。ついでに言っておくと、多分まだ治っておらず、もしかしたら完治するようなものではないのかもしれません。取り敢えず、今は大した支障がない程度ではあるので、これ以上の回復を望むのはちょっと贅沢なことかもしれないと、あまり気にしないようにしています。
実は、耳管開放症と分かる随分前から同様の症状は時折ありました。その度に耳鼻咽喉科に行くも『どうもない』『わからない』で片付けられていました。
発症し、暫くすると気にならなくなる。でも暫くしてまた症状がでて、そしてま
今でも思い出すと暗い気持ちになるのは、耳が痛くなって居ても立っても居られず、休日診療に行った時のこと。それから、とある年末に耳が痛み出し、耳を診てもらえる遠方の救急病院に夜になって駆け込んだことです。どちらの場合も『特に異常無し』で帰ってきました。
「絶対におかしい!こんなに痛いのに何も無いなんてあるわけがない!」
そう思いましたが、本当にどこの病院に行ってもいつも『なにもない』で終わってしまうのです。長い間、この訳のわからない状況に度々悩まされていました。でも、本当の苦しみはまだ始まっていなかったのです。
やがて、発症して耳閉感等の症状が和らぐまでの期間が長くなっていきます。耳閉感が解消しづらくなると同時に、耳の痛みが加わることも増えていきました。耳管開放症の症状を言葉で説明すると「以上、終わり!」なのですが…。この症状が普段の生活に齎す精神的影響は甚大です。
多くの病気がそうだと思いますが、症状から解放されるのは眠って意識がない時だけです。耳管開放症の場合も意識がある時はずっとなので、気がおかしくなりそうになります。突発的に起こる耳の痛みも恐怖でしかありませんでした。
曲がりなりにも音楽をやる身であった私にとって、耳閉感の症状は端的に言って致命的でした。音が聞こえなくなるわけではないとしても、耳閉感が高まると右耳だけ七〜八割の情報量が減る感じで、音楽どうこう言う以前に、生活自体が気持ち悪いのです。音と同時に平衡感覚さえ歪む感じで、どんな音だろうが不快でしかなくなります。そして、どんな音質がどれくらいの音量で鳴っているのか全く掴めない、ベースを弾いても聴こえてくるはずの音像が分からない…となった時、もう自分は音を出せない状態にあることに気が付きました。症状は和らぐどころか頻発する一方で、治るのかどうか見当もつかず、この症状が消え去らない限り音は判らないまま…。私はベースを手に取ることができなくなりました。自分の内で鳴っている音に蓋をしてしまわなければ、余計に苦しくなるだけだと、その時に所属していたバンド、オディバイドロヘーのベースも辞めざるを得ませんでした。音がどう鳴っているのか判らない以上、仕方がありません。
何がきっかけだったのか、今となってはよく覚えていないのですが、きっと手当たり次第に調べ漁っていた時かもしれません。ある時、耳管開放症という聞きなれない症状のことを知りました。そして、そこで挙げられている症状全てが自分の症状に当て嵌まるわけではなくとも、とても似ていると思ったのです。
「もしかして…これかも?」
とにかく一刻も早く治りたい。その一心で、耳管開放症の検査が可能な大学病院を見つけ、診てもらうことにしました。
診察時の女医さんに症状を説明して、耳管開放症ではないかと思っていることを伝え、別室で検査をすることになりました。検査機器は何か特別な機器といった
長い間、訳のわからない症状が続いていて、何度も病院に行ったり、痛くなって救急病院に駆け込んだりして、偶然知った耳管開放症を自ら疑って診てもらいに来ての『そうだと思う』には、何だか拍子抜けのような感じがしました。それに耳管開放症だとしても、特にこれといった治療法がないことも薄々分かっていました。だからこの診断で特に何かが変わるわけでもなく、『やっぱりそうなんだ』くらいのことでしかないのでした。
約三ヶ月間、私が毎日服用していたのは、アデホスコーワ・メチコバール・ケンタン錠(鎮痛時)です。薬の詳細についての説明は控えます。興味がおありでしたら、ご自身でお調べになってください。
耳管開放症の通院は月に一度で、診察と言っても症状の経過を話す程度です。特に耳を診たりするわけでもありません。私は耳閉感に加えて耳の奥の痛みにも悩まされていて、症状の日誌をつけてみてはということになりました。何が引き金になっているのか分からないので、薬の服用状況、当日の気温など、日々変化して影響があるかもしれないことを書き留め、一ヶ月分の日誌を次の診察日に持って行きました。すると、ちょっと呆れた感じで「神経質そうな性格みたいだから…」のようなことを言われてしまいます。先生が思っていたのは、もっと簡単なメモのようなものだったのかもしれません。私は少しでも良くなりたいと、ただそれだけで、そのために何か役立ちそうなものを見つけられたらと思っていただけでした。
記録を振り返ると、私はその後に漢方薬を処方してくれる先生から「六君子湯」を二ヶ月、「牛車腎気丸」を五ヶ月出して貰って試していました。また、耳管開放症と診断される半年ほど前にも、同じ先生に相談して「加味帰脾湯」の服用を三ヶ月続けていました。いずれも耳鳴りに作用する面があることから、何か少しでも効果があればと思ってのことでした。漢方は体質改善を促すものなので、一定の期間は飲み続けなければいけません。最低でも一、二ヶ月は続けてみないとわからないという認識があったので、即効性は期待していませんでしたが、結果として何か効いた感じは特になく、今思えば全て空振りだったということになります。
それから暫くして徐々に症状は和らいでいきました…と言いたいところなのですが、実は、そう言えるくらいになった時期はよくわからないのです。その理由は幾つか考えられます。一つは、この症状はある日突然良くなるわけではないということです。症状には波があるので、ある時僅かに和らいでいることを感じたとしても、それが一時的なものなのか、或いは快方に向かっている和らぎなのか判断できません。もう一つは、症状が軽い時の慣れのようなものがあります。完全に耳閉感を感じている時もあれば、やや軽めに感じる程度の時もあります。ひょっとすると、気にならなくなっているだけで、今も実際には若干耳閉感が残っているのかもしれません。症状が長期間続いてきたことで、軽く残っている状態と、本当に治った状態の違いが最早判らなくなっているのかもしれないのです。うまく説明が出来ていないかもしれませんが、この頃に治った(和らいだ)という認識はないのです。
であれば、自分の行動に何らかの変化が起こっていれば、大体その時期に良くなったのだと判るかもしれませんよね。例えば、またベースを弾き出したとか。ところが話はそう上手くはいかないもので、その時の症状の程度にかかわらず、
あまり詳しくは言いませんが、この頃は別の体調不良もあり、体中が弱っている時期だったようにも思います。普段の生活にはあまり支障がない状態になっていても、ベースを手にする気になることもなく数年が過ぎていきました。生きているだけで随分消耗してしまった、そんな時期だったのかもしれません。
はじめはサポートで参加する感じのことを思っていた私。ゲッシコンチェルト全員集合の場に呼ばれて行くと、苔埜が「今日からうちのベースの住旗だよ」と皆に紹介し、いきなりメンバー入りが決定…。丁度その頃、ゲッシコンチェルトはアルバム(アマロコロド)の収録に備えていて、専任のベース係の必要に迫られていました。そういう事情もあったのか、とにかくべらぼうに歓迎され、途中加入の新参者は慣れるまで大変みたいなことは皆無でした。それどころか、尖ったところが一切ない素朴で穏やかな皆の空気感に、クラシックは落ち着いているんだなぁと感心しました…最初はね(笑)。
ゲッシコンチェルトは、皆の高い演奏技術によりアンサンブルが完全に仕上がっているバンドで、「これはヤバいところに来てしまった…」と内心思いました。齧っし重奏自体は古くからある形式なので、私もそこそこの予備知識はありましたが、緻密に組み立てられていく音と演奏には、こんなに繊細なものだったのかと衝撃を受けました。ある日の音合わせの時のことでした。ヴァイオリンの宮坂七が、曲の途中からのチェロの入りのタイミングを気持ち遅らせて欲しいと、バンマスの大黒八二右衛門(チェロ)に言いました。で、やってみるとすぐにダメ出し大会開催です。
バンドの皆がそれぞれ自らに課す要求の高さに、私もプレッシャーを感じていなかったわけではありません。それどころか、「ヤバいところに来てしまった」と初めに感じた時から、ベースの責任をしっかり果たなくてはと気を張っていました。そうこうして、ゲッシコンチェルトの雰囲気も大体掴めてきた、とある日の収録前の音合わせで事件は起こりました。
私は相当ぼーっとした顔をしていたようです。だけど自分の中では何が起きたのかはっきりしていました。体調不良でもなんでもありません。嘗て所属していたバンド、オディバイドロヘーで同じようにベースを手にして立っていたこと、メンバーと息を合わせて弾いていたあの頃のこと…。今は場所も音楽も何もかも違うけど、自分の居場所に戻っている…。これまで、耳閉感や耳の痛みに苦しんでいたことが少しづつ癒えてきていることを実感して、只々とても落ち着いた気持ちでいたのです。それで自分のパートを忘れるなんて、バンドメンバーとしては完全に失格ですが、怒られるどころか、自分を気にかけてくれる仲間が周りにいて、もう独りではないことをしみじみ感じていました。私はここに戻ってきた。自分が居るべき、この場所に。
私がゲッシコンチェルトに入ってすぐに始まったアルバム制作は、全工程で約一年半を要しました。収録期間は凡そ十三〜十四ヶ月に及んでいたはずです。何より感謝してもしきれないのは、私の体調を考慮して無理のないような工程で進めてもらっていたことです。実は全体の半分ほどの収録が過ぎた秋頃から、また耳管開放症による耳閉感がではじめ、やむを得ず休ませてもらっていました。三ヶ月くらい穴を開けてしまって、本当に申し訳なかったと今でも思っています…。この時はもう薬を飲んだりすることもなく、できる限り身体を休めるようにしました。幸運なことに、あまり酷い状態にはならず、年が明けて一月の後半からまた戻ってくることができました。その間、他の皆は休むことなく、其々の分野で進められる作業をしてくれていて、熟、演奏するだけに収まらない凄いメンバー揃いだと頭が下がる思いでした。
連絡が来たのは、ゲッシコンチェルトの音合わせがお休みになった日で、確か雨が降っていました。メール送信元の『下松愛香』表記に吃驚しました。
ゲッシコンチェルトのアルバム「アマロコロド」の収録が終わった頃、元いたバンド(オディバイドロヘー)を運営していたヘドロプロダクションが、不祥事の発覚で取り潰しになるという知らせが舞い込んで来ました。
約一年半に渡った、ゲッシコンチェルトのアマロコロドアルバムの制作が終わって間もなく、次の計画の準備が始まりました。ザノベティムジクスという大所帯アンサンブルとの共作が決まっていて、普段とは少々異なる制作環境でしたが、苔埜の許可を得て、下松には見学がてら何度か来てもらうことができました。小規模でも整えられたゲッシコンチェルトの作業の様子は、下松にとっても
私は、下松が何らかの形でゲッシコンチェルトと関わってくれると良いなと思っていました。ただ、ゲッシコンチェルトは基本的にクラシックなので、下松のロックが求められる機会がそう多くはないことは否定できません。私は器用な下松がその気になれば、ベースも弾けるのではないかと感じていました。なので、自分がもし突発的な耳管開放症の症状でまた弾けなくなった時には、下松に任せることが出来たらと密かに思っていたわけです。
下松にゲッシコンチェルトでギターを弾いてもらう機会は、意外に早く訪れました。私たちが手がける楽曲集の制作でハードなギターが必要な曲があるということで、それなら是非下松に弾いてもらおうということになりました。既にご存知の方もおられるとは思いますが、「隹(ふるとり)」という曲で、下松のロックが炸裂しています。本人は涼しい顔で弾いていましたが、私と絡んでいる普段の様子からは想像もつかない大人なサウンドで、ここ(ゲッシコンチェルト)と抜群の相性だと確信しました。苔埜からも「とんでもないの連れてきたな(笑)」と褒められ、先輩のわいかいねーさんとしても友人としても、凄く嬉しい出来事でした。迷惑掛けっぱなしのゲッシコンチェルトの皆に少しでもお返しが出来たかもしれないし、それに何より皆が下松の力を引き出してくれたという思いもあって、これまでで一番嬉しい瞬間だったかもしれません。
確かに、私は完治はしていません。今でも右耳に危うさを感じる事もあって、随分和らいだとはいえ、耳の痛みへの恐怖心で鎮痛剤も手放せません。現状を維持するための耳の保護も必要です。自分では制御出来ないものへの不安から解放されることはないと思います。だけど、それは皆同じです…。具体的な不安要素はそれぞれ違えど、ほんの少し諦めずにいること、ほんの少し誰かに助けてもらい、自分も誰かの助けになること。そんな平凡且つ、非凡な中で私たちはどうにか生きているのです。
私は今居る場所で、ベースが弾ける間はしつこく居座ってやろうと思っています。誰かにもう辞めてくれと言われても、今度は私がゲッシコンチェルトの支配者(?)になって、さらに居座ってギャフンと言わせてやるつもりです(笑)。
苔埜、宮坂、佐竹、八二右衛門、そして下松も…皆、本当にありがとう。
一生付き纏うから、覚悟してくださいな。
その他の補足・関連事項
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