肱岡住建なっちゃんと苔のサムロゲッシコンチェルトhijioka.net
玄関アマロコロド暗渠からの逃走よみがえりし音ゲッシクチュール・キュケィ耳の隙間
「耳の隙間」
はじめに

「耳の隙間」は、ゲッシコンチェルトのベース係である住旗わいかいが、耳管開放症にまつわる実体験と共に、ゲッシコンチェルトに加わるきっかけから現在に至るまでを振り返ってお話しするものです。多くの方にとって、耳管開放症がどのようなものかを知っていただける初めての機会となるかもしれませんが、症状やその程度はひとりひとり様々であり、ここで記されているものは一例であることを予めご了承ください。また症状の診断や治療については、必ず専門医にご相談ください。

第一章 ことのはじまり
エクステンション付きイヤーマフ

こんにちは。ゲッシコンチェルトでベースを弾いている、住旗わいかいです。時々言われるんですよね。
『わいかいって、なんで耳から髪の毛が?』って(笑)。
実はこれは髪の毛ではなくて、エクステンション付きイヤーマフなのです!
どうしてそんなのをしているのかと言うと、色んな事情があって、できるだけこれで耳を保護しているからです。

これからお話しすることは、私が今ゲッシコンチェルトにいることと深く関係している『耳管開放症』のことです。最近は耳管開放症のことも随分知られるようになったと思いますが、私がこの症状に悩まされていた頃は、自分も含めて殆どの方にとっては聞きなれないものでした。私は大袈裟なこと言うつもりはありませんし、同情を引こうとしているわけでもありません。しかしこれが結構厄介な症状で、普段の生活への影響は決して小さなものではないと感じています。
一先ず、このイヤーマフは、騒音や不安を感じさせるものから自分を守るためのものだということで、そんなことがあるのか〜って感じで、読んでいただけたらと思います。(イヤーマフ[防音用]は、耳を騒音から守るためのものです)
耳管開放症ってなに?

耳管開放症というのは、読んで字の如く、鼻と耳を繋いでいる耳管が開きっ放しになってしまい、圧力調整ができなくなる症状のことです。これによって自分の声が大きく聞こえたり、耳がつまった感じになったりします。トンネルや高地等で気圧の変化が起こると、耳がつまった感じになることがあると思いますが、それって、あくびをしたり唾を飲み込んだりすると解消しますよね。そうすることで耳管が動いて圧が調整されるのだそうです。でも耳管開放症によるつまった感じは、何をしても解消されないままです。私の場合は、右耳の耳閉感(耳がつまった感じ)や耳鳴りが顕著で、次第に耳の奥の痛みまで発症するようになりました。一般的に原因として考えられているものの中には特に当て嵌まるものがなく、今でも原因は不明です。ついでに言っておくと、多分まだ治っておらず、もしかしたら完治するようなものではないのかもしれません。取り敢えず、今は大した支障がない程度ではあるので、これ以上の回復を望むのはちょっと贅沢なことかもしれないと、あまり気にしないようにしています。

実は、耳管開放症と分かる随分前から同様の症状は時折ありました。その度に耳鼻咽喉科に行くも『どうもない』『わからない』で片付けられていました。
発症し、暫くすると気にならなくなる。でも暫くしてまた症状がでて、そしてま

た和らいで気にならなくなる。そういうことが時折起こる状況が何年も続いていたので、いつから耳管開放症だったのか正確には分かりません。お医者さんにどう説明しても伝わらず、理解してもらえなかったことを覚えています。なので「まぁ、そのうち気にならなくなるし、そういうものなのかな」と思うしかなかった、と言うわけです。

今でも思い出すと暗い気持ちになるのは、耳が痛くなって居ても立っても居られず、休日診療に行った時のこと。それから、とある年末に耳が痛み出し、耳を診てもらえる遠方の救急病院に夜になって駆け込んだことです。どちらの場合も『特に異常無し』で帰ってきました。
「絶対におかしい!こんなに痛いのに何も無いなんてあるわけがない!」
そう思いましたが、本当にどこの病院に行ってもいつも『なにもない』で終わってしまうのです。長い間、この訳のわからない状況に度々悩まされていました。でも、本当の苦しみはまだ始まっていなかったのです。

悪化する

私の場合、症状がでる際のきっかけのようなものは特にありませんでした。いえ、無いわけでは無いのかもしれません。頻繁に発症する時期が、冬や寒い日が多いような気がして、冷えや血行の問題なのかな?と思ったりもしていました。

『結局、体の不調の原因の多くは血行不良なんだ!』みたいなことを聞いたりすることってありませんか?
なんと実際、耳管開放症の場合も、頭を低くすることで開きっ放しになってしまった耳管周辺に血流が促され、耳管が狭まって楽になる場合があるそうです。実は私は知らずにそれを自然にやっていました。そうすることで楽になるというよりも、何だかそうしたい気分になるのです。ベッドから頭だけ下げてじっとしている傍目には変な光景だったと思います。残念なことに、私には一時的に症状が軽減するといった効果もありませんでした。私の場合、血流は促されたとしても、それで耳管は狭くはならなかったということなのかもしれませんね。何がどうなのかよく分かりませんが、もし、血行不良が原因の一つであったとしても、それは季節や外気温などの外的要因よりも体質的な影響の方が大きいのかもしれません。現に夏でも症状はでていたので

やがて、発症して耳閉感等の症状が和らぐまでの期間が長くなっていきます。耳閉感が解消しづらくなると同時に、耳の痛みが加わることも増えていきました。耳管開放症の症状を言葉で説明すると「以上、終わり!」なのですが。この症状が普段の生活に齎す精神的影響は甚大です。
多くの病気がそうだと思いますが、症状から解放されるのは眠って意識がない時だけです。耳管開放症の場合も意識がある時はずっとなので、気がおかしくなりそうになります。突発的に起こる耳の痛みも恐怖でしかありませんでした。

第二章 遠ざかる音
音がわからない

曲がりなりにも音楽をやる身であった私にとって、耳閉感の症状は端的に言って致命的でした。音が聞こえなくなるわけではないとしても、耳閉感が高まると右耳だけ七〜八割の情報量が減る感じで、音楽どうこう言う以前に、生活自体が気持ち悪いのです。音と同時に平衡感覚さえ歪む感じで、どんな音だろうが不快でしかなくなります。そして、どんな音質がどれくらいの音量で鳴っているのか全く掴めない、ベースを弾いても聴こえてくるはずの音像が分からないとなった時、もう自分は音を出せない状態にあることに気が付きました。症状は和らぐどころか頻発する一方で、治るのかどうか見当もつかず、この症状が消え去らない限り音は判らないまま。私はベースを手に取ることができなくなりました。自分の内で鳴っている音に蓋をしてしまわなければ、余計に苦しくなるだけだと、その時に所属していたバンド、オディバイドロヘーのベースも辞めざるを得ませんでした。音がどう鳴っているのか判らない以上、仕方がありません。

中途半端に聞こえるよりも、いっその事聞こえない方が楽で、耳栓をすることも多くなりました。それまでも耳栓を使う機会は多く、抵抗感はなかったのですが、耳が痛い時の耳栓は余計痛くなる感じがして使えず、鎮痛剤を飲んで堪えるしかありませんでした。(そういう理由でもイヤーマフに切り替えました)
耳管開放症の診断

何がきっかけだったのか、今となってはよく覚えていないのですが、きっと手当たり次第に調べ漁っていた時かもしれません。ある時、耳管開放症という聞きなれない症状のことを知りました。そして、そこで挙げられている症状全てが自分の症状に当て嵌まるわけではなくとも、とても似ていると思ったのです。
「もしかしてこれかも?」

そしてこの耳管開放症の診断には、検査機器の設備が必要であること且つ、『耳管開放症ではないか?』と疑って診られる医師に掛かるというのがポイントで、耳鼻咽喉科であればどこでもいいわけではないということでした。どちらの点も、当たり前のことと言えばそうなのですが、当時は耳管開放症のことはあまり知られておらず、病院に行っても『異常なし』で帰らされていたことも踏まえると、自分の症状が耳管開放症によるものである可能性は高いのではないかと感じたのでした。

とにかく一刻も早く治りたい。その一心で、耳管開放症の検査が可能な大学病院を見つけ、診てもらうことにしました。
診察時の女医さんに症状を説明して、耳管開放症ではないかと思っていることを伝え、別室で検査をすることになりました。検査機器は何か特別な機器といった

感じでもなく、検査も短時間で済んだはずです。
先生の診断は「うんそう(耳管開放症)だと思う」でした。

長い間、訳のわからない症状が続いていて、何度も病院に行ったり、痛くなって救急病院に駆け込んだりして、偶然知った耳管開放症を自ら疑って診てもらいに来ての『そうだと思う』には、何だか拍子抜けのような感じがしました。それに耳管開放症だとしても、特にこれといった治療法がないことも薄々分かっていました。だからこの診断で特に何かが変わるわけでもなく、『やっぱりそうなんだ』くらいのことでしかないのでした。

薬は効かない

予め誤解が生じないように言っておきたいのですが、私は『効果があるかもしれない』と言われていることは、余程変なことでない限り、片っ端から全部試してみた方が良いと思います。お薬も負担にならない範囲で、全部試してみた方が良いと今でも思います。その理由は只一つ。自分に何が効くのかはひとりひとり様々であって『間違いでも、偶然でも、治った方が良い』からです。それが気のせいでも何でも、ちょっとでも和らいだのならそれで良いのです。私はそう思うくらい精神的に追い詰められていました。だからもし、同じような症状で悩んでいる方がこれを読んでおられたら、諦めないで色んなことを試してもらいたいと

思います。だけどその上で、薬にはあまり効果を感じられない場合もあることを言っておかなければなりません。耳管開放症の診断をしてくれた先生が、処方箋を出してくれたことにも感謝していますし、きっと効果が出る場合もあるのだと思います。ただ、自分の場合は期待したような変化は起こりませんでした。

約三ヶ月間、私が毎日服用していたのは、アデホスコーワ・メチコバール・ケンタン錠(鎮痛時)です。薬の詳細についての説明は控えます。興味がおありでしたら、ご自身でお調べになってください。

耳管開放症の通院は月に一度で、診察と言っても症状の経過を話す程度です。特に耳を診たりするわけでもありません。私は耳閉感に加えて耳の奥の痛みにも悩まされていて、症状の日誌をつけてみてはということになりました。何が引き金になっているのか分からないので、薬の服用状況、当日の気温など、日々変化して影響があるかもしれないことを書き留め、一ヶ月分の日誌を次の診察日に持って行きました。すると、ちょっと呆れた感じで「神経質そうな性格みたいだから」のようなことを言われてしまいます。先生が思っていたのは、もっと簡単なメモのようなものだったのかもしれません。私は少しでも良くなりたいと、ただそれだけで、そのために何か役立ちそうなものを見つけられたらと思っていただけでした。

また『症状が治ったら、勝手に(病院と)縁切ってくれて良いから』とも言われました。それも多分、通院するしないも好きにして良いよという先生の気遣いだったのかもしれません。裏を返せば、通院しても治るわけではないということだったのかもしれませんが。
日誌をつけていたくらいなので、処方箋は欠かさず服用していました。何か症状が良くなった感じがあればよかったのですが、特に変化を感じることもなく、月に一度だけ処方箋を貰いに行くことに意味を見出せず、通院をやめました。

記録を振り返ると、私はその後に漢方薬を処方してくれる先生から「六君子湯」を二ヶ月、「牛車腎気丸」を五ヶ月出して貰って試していました。また、耳管開放症と診断される半年ほど前にも、同じ先生に相談して「加味帰脾湯」の服用を三ヶ月続けていました。いずれも耳鳴りに作用する面があることから、何か少しでも効果があればと思ってのことでした。漢方は体質改善を促すものなので、一定の期間は飲み続けなければいけません。最低でも一、二ヶ月は続けてみないとわからないという認識があったので、即効性は期待していませんでしたが、結果として何か効いた感じは特になく、今思えば全て空振りだったということになります。

第三章 回復へと
和らぐ症状と停滞

それから暫くして徐々に症状は和らいでいきましたと言いたいところなのですが、実は、そう言えるくらいになった時期はよくわからないのです。その理由は幾つか考えられます。一つは、この症状はある日突然良くなるわけではないということです。症状には波があるので、ある時僅かに和らいでいることを感じたとしても、それが一時的なものなのか、或いは快方に向かっている和らぎなのか判断できません。もう一つは、症状が軽い時の慣れのようなものがあります。完全に耳閉感を感じている時もあれば、やや軽めに感じる程度の時もあります。ひょっとすると、気にならなくなっているだけで、今も実際には若干耳閉感が残っているのかもしれません。症状が長期間続いてきたことで、軽く残っている状態と、本当に治った状態の違いが最早判らなくなっているのかもしれないのです。うまく説明が出来ていないかもしれませんが、この頃に治った(和らいだ)という認識はないのです。

であれば、自分の行動に何らかの変化が起こっていれば、大体その時期に良くなったのだと判るかもしれませんよね。例えば、またベースを弾き出したとか。ところが話はそう上手くはいかないもので、その時の症状の程度にかかわらず、

私は恐怖心のようなものから楽器には一切触れたくなくなっていたのです。大袈裟なことを言っていると笑われるかもしれませんが、自分の知っている音が聴こえて来ないというのは、本当につらくて堪えられないことでした。治ったと勘違いして鳴らしてみたら全然違ったそんな思いをするくらいなら、やらない方がまし。もうそういう思いをするのは嫌でした。症状が和らいでも、一旦遠ざけたものをそう簡単に元に戻すことは出来ないのでした。

あまり詳しくは言いませんが、この頃は別の体調不良もあり、体中が弱っている時期だったようにも思います。普段の生活にはあまり支障がない状態になっていても、ベースを手にする気になることもなく数年が過ぎていきました。生きているだけで随分消耗してしまった、そんな時期だったのかもしれません。

時は来る

原因が判らないままでは、また発症するかもしれない不安からは、なかなか逃れられません。何が引き金になるか分からないので、再びベースを弾けるようになって「音わかる!できる!」と思っても、もうそれだけで充分な気がしました。バンドに戻りたいとか前みたいにやりたいとは感じず、こうやって耳が痛くなったりしないだけで充分じゃないかって。そんな状態が延々と続きました。精神的に疲れ切っていた私には、もっと沢山の時の経過が必要なのでした。

ある時、旧知の仲だったグリーンボデーの苔埜から連絡が来て、お散歩茶屋ツボウチに呼び出されました。それまでも、たまーに連絡をくれていたので、別に不自然な感じもなく「あーわかったー」と、二つ返事で普通に出掛けて行きました。お散歩茶屋ツボウチは、外に長椅子、内には桟敷もある古びた木造の小さな茶屋で、苔埜は桟敷の隅で待っていました。

苔埜「風来坊やってるらしいな。もう弾けるんだろ?
うち(ゲッシコンチェルト)に来て欲しい」

住旗「はぃ?(笑)いきなり何言ってんの。あんた古典でしょ?私ロックだよ?それに、また突然できなくなるかもしれないからダメだよ。迷惑かけちゃう」

苔埜「途中でできなくなったとしても、そんなんなんとでもなる。余計な心配するな。うちは何があっても住旗をやめさせない。一緒にやろう」

苔埜が静かにそう言うと、私の中で何かが急に溢れてきて、何だか訳のわからない涙がポロポロ落ち出しました。どこかで聞いて知ってたんだよね、私が独りになっちゃったこと、苔埜は。だから時々連絡くれてたんだって気付きました。微塵も躊躇わずに来いと言ってくれたこと、どこかの時点でそうしようって考えてくれたこと、私はきっと一生忘れない。
ゲッシコンチェルトに加入

はじめはサポートで参加する感じのことを思っていた私。ゲッシコンチェルト全員集合の場に呼ばれて行くと、苔埜が「今日からうちのベースの住旗だよ」と皆に紹介し、いきなりメンバー入りが決定。丁度その頃、ゲッシコンチェルトはアルバム(アマロコロド)の収録に備えていて、専任のベース係の必要に迫られていました。そういう事情もあったのか、とにかくべらぼうに歓迎され、途中加入の新参者は慣れるまで大変みたいなことは皆無でした。それどころか、尖ったところが一切ない素朴で穏やかな皆の空気感に、クラシックは落ち着いているんだなぁと感心しました最初はね(笑)。

ゲッシコンチェルトは、皆の高い演奏技術によりアンサンブルが完全に仕上がっているバンドで、「これはヤバいところに来てしまった」と内心思いました。齧っし重奏自体は古くからある形式なので、私もそこそこの予備知識はありましたが、緻密に組み立てられていく音と演奏には、こんなに繊細なものだったのかと衝撃を受けました。ある日の音合わせの時のことでした。ヴァイオリンの宮坂七が、曲の途中からのチェロの入りのタイミングを気持ち遅らせて欲しいと、バンマスの大黒八二右衛門(チェロ)に言いました。で、やってみるとすぐにダメ出し大会開催です。

宮坂「っおっそい!」

大黒「なんだとこのネズ公!遅れて入れって言ったのお前だろ!」

宮坂「2/1000秒遅いのよっ。このネズ公が!」

苔埜「どっちもネズ公なんだから、ネズ公呼びは要らないだろ?」

大黒「これ以上わしらの裁量でやったら、佐竹(ビオラ)の出だしのタイミングだって困るじゃないか」

宮坂「十二小節前のビオラの出はほぼ聴こえない指示になってる。ここで違った風になったら曲の一貫性がなくなると思わない?それに佐竹が同じ音でチェロと被るから、次の和音にスムーズにいけるんでしょ?」

流石に私も2/1000秒には笑いましたが、でもそれはそういうことなのです。それが正しいとか正確かとかの話ではなく、宮坂が想い描いている音像がそうなのです。これはほんの一例で、とにかく彼等の細部に渡って払われる注意は半端ではありません。この積み上げが彼等の、否、私たちの齧っし重奏を作っているのです。ところで、このやり取りの様子からして大喧嘩することもあるのでは?と
思わせてしまったかもしれませんね。でも、全くそういうことはないのでご安心を。経験上、バンドというやつは一人でも『子供』が混ざっていると、結構つまらないことで本気で揉めたりしがちなのですが、ゲッシコンチェルトの場合、わざと真剣に揉めて遊ぶという悪癖文化があり、それが茶番だと判るまでは、事が始まる度に本当にハラハラしていたことは秘密です(笑)。

新しくて古くからの居場所

バンドの皆がそれぞれ自らに課す要求の高さに、私もプレッシャーを感じていなかったわけではありません。それどころか、「ヤバいところに来てしまった」と初めに感じた時から、ベースの責任をしっかり果たなくてはと気を張っていました。そうこうして、ゲッシコンチェルトの雰囲気も大体掴めてきた、とある日の収録前の音合わせで事件は起こりました。

ストリングスのアンサンブルが続いて、暫くベースパートは待機。苔埜のピアノが演奏全体のリズムを整えて、とっても綺麗な音の流れに聴き入っていました。私は完全に聴衆になってしまい、なんと自分のベースが入って行く部分になっても気付かずにいました。自分のベース音がなくて「何か音が足りない?」そう思った時に、皆の演奏がふと止まりました。

佐竹「わいかいどうした?」
隣にいたビオラの佐竹の声がして、皆が心配そうな顔で私を見ていました。

大黒「大丈夫か、住旗

宮坂「どっか痛い?休憩しよっか?ね」

苔埜「無理しなくていいんだぞ」

私は相当ぼーっとした顔をしていたようです。だけど自分の中では何が起きたのかはっきりしていました。体調不良でもなんでもありません。嘗て所属していたバンド、オディバイドロヘーで同じようにベースを手にして立っていたこと、メンバーと息を合わせて弾いていたあの頃のこと。今は場所も音楽も何もかも違うけど、自分の居場所に戻っている。これまで、耳閉感や耳の痛みに苦しんでいたことが少しづつ癒えてきていることを実感して、只々とても落ち着いた気持ちでいたのです。それで自分のパートを忘れるなんて、バンドメンバーとしては完全に失格ですが、怒られるどころか、自分を気にかけてくれる仲間が周りにいて、もう独りではないことをしみじみ感じていました。私はここに戻ってきた。自分が居るべき、この場所に。

第四章 不可思議な縁
可愛い後輩

私がゲッシコンチェルトに入ってすぐに始まったアルバム制作は、全工程で約一年半を要しました。収録期間は凡そ十三〜十四ヶ月に及んでいたはずです。何より感謝してもしきれないのは、私の体調を考慮して無理のないような工程で進めてもらっていたことです。実は全体の半分ほどの収録が過ぎた秋頃から、また耳管開放症による耳閉感がではじめ、やむを得ず休ませてもらっていました。三ヶ月くらい穴を開けてしまって、本当に申し訳なかったと今でも思っています。この時はもう薬を飲んだりすることもなく、できる限り身体を休めるようにしました。幸運なことに、あまり酷い状態にはならず、年が明けて一月の後半からまた戻ってくることができました。その間、他の皆は休むことなく、其々の分野で進められる作業をしてくれていて、熟、演奏するだけに収まらない凄いメンバー揃いだと頭が下がる思いでした。

話は前後するのですが、アルバム収録作業が始まってから半年くらい経った六月頃のことです。とある事情故、夏の収録作業は出来そうにないということで、日程の再調整をすることになりました。少し時間的余裕ができそうだったので、私にとっては気持ちの面でも少し楽な感じになりました。そんな折、以前私が所

属していたバンド(オディバイドロヘー)で、サポートギターをしてくれていた下松愛香から数年ぶりの連絡が来ました。下松は、私がオディバイドロヘーを辞める数ヶ月前から単発でサポートに入ってくれることになった五歳年下の子です。当時それほど親しいやり取りがあった覚えもないのですが、お互い何か気が合う感じで、下松は私のことを「わいかいねーさん」、私は「モトマツ」と呼び合っていました。だけど私がバンドを抜け、ベースからも離れていったのと同期するように、下松とのやり取りも途絶えて疎遠になってしまっていたのでした。

連絡が来たのは、ゲッシコンチェルトの音合わせがお休みになった日で、確か雨が降っていました。メール送信元の『下松愛香』表記に吃驚しました。

『わいかいねーさん、下松です。久しぶり過ぎてごめんなさいです! 
お元気ですか?ねーさんがまたベース弾いてるって聞いてびっくりしちゃってほんとですか??。よかったらお返事ください!下松待ってます!』

そこからやり取りが始まって、気が付いたら週末は必ずうちで一緒に食事するようになっていました(笑)。後から聞いた話ですが、下松は耳管開放症で弾けなくなった私にどう接したらいいのか分からず、連絡をしたくても出来なかったそうです。「わいかいねーさんがいなくなったオディ(バイドロヘー)で弾くのは寂しかったし、悲しかった」と泣かれた時は、私も泣いてしまいました。
下松は、風の噂で私がゲッシコンチェルトでベースを弾いているらしいと聞き、居ても立っても居られずメールを送ってきたのでした。私のことで下松が思い悩んでいたなんて思ってもみませんでしたが、下松にしても、苔埜にしても、私は本当は独りじゃなかったのかもしれないと。下松と沢山話をして、色んなことを思いました。

悪い知らせ

ゲッシコンチェルトのアルバム「アマロコロド」の収録が終わった頃、元いたバンド(オディバイドロヘー)を運営していたヘドロプロダクションが、不祥事の発覚で取り潰しになるという知らせが舞い込んで来ました。

ヘドロプロダクションは人間との関わりがあり、人間の共同経営者(仮称・甲)がいました。甲にはビジネスパートナーの乙がおり、その乙は、人身売買・児童買春及び臓器違法売買に加え、自然発火を装った放火・気候変動詐欺等あらゆる悪事に手を染めていた起業家Y並びに政治屋Xと昵懇で、甲のコンピュータに侵入し、界隈からのキックバックや資金洗浄をヘドロプロダクション経由で行っていたのです。勿論、こうしたことは一般の報道ではなされません。人間の世界では、あまりに倫理観が欠落した性癖や、大規模な犯罪は報じないことになっているようです。それはともかく、ある意味ではヘドロプロダクションは巻き添えに
なったという見方も出来るのかもしれません。しかし、齧っしの世界はそういったことに寛容ではありません。ヘドロプロダクション内の規律が杜撰なものであったが故の不祥事でもあり、存続が許されるはずもありませんでした。当然、オディバイドロヘーも解散です。一時はヘドロプロダクションを離脱して自由の身にはなったのですが、拾ってくれるような所があるはずもなく、閉店を余儀なくされました。一年前のメンバー入れ替えのタイミングで、オディバイドロヘーに加入した下松も放逐の憂き目に遭い、もし私が耳管開放症にならず、バンドを辞める事がなかったとしても、こういう結末が待っていたのかと複雑な思いでした。だけど、私は苔埜に助けられた。今度は私が下松を助ける番だと。

余りにも汚らわしくて言及する気にもなれませんが、この不祥事(犯罪)における人間の当事者らは特に裁かれる事もなく、これまで通り聡明な成功者として奉られ、堂々と生きているそうです。理解不能です。

下松だって、齧っしだよ

勘が良い方は既にお察しのことかもしれませんが、風来坊となってしまった下松は私の部屋に転がり込んできました。そういうことになるかもしれないなぁと何となく思っていたので、『まぁ、そうなるよね』と自然に迎え入れました。
下松の窮地に、こんなことを言うのは不謹慎なのですが、私は下松がうちに来て

から毎日ちょっと楽しくなりました。気の合う話し相手がいることに加え、毎日のように下松がゲッシコンチェルトに呼んでくれアピールの歌?呪文?を唱えていたのが面白くて、今思い出しても笑っちゃいます。耳閉感の症状で収録を約三ヶ月お休みしていた時も、そんな下松の存在に私の方が助けられていました。

「愛香は齧っし、愛香も齧っし。だからやれるよ、ゲッコンでギター。ねーさんも齧っし、愛香も齧っし(以下、類似の呪文が延々続く)」

一曲作れそうな可愛い呪文だと思いませんか?こっそり録音しておけば良かったですねしくじった!(笑)。下松のギターは、サポートの頃から器用で大胆というのが私の印象で、お世辞抜きで、そんじゃそこらへんの編曲家が考えるものより、遥かに興味深い音が素で飛び出してくるタイプだと思います。仲良しだからとかそういうことは別にして、私は彼女のギターが好きです。ただ、下松のハードロックギターがゲッシコンチェルトで活かせられるのかというと、そういう状況はちょっと思いつかないのが正直なところでした。

約一年半に渡った、ゲッシコンチェルトのアマロコロドアルバムの制作が終わって間もなく、次の計画の準備が始まりました。ザノベティムジクスという大所帯アンサンブルとの共作が決まっていて、普段とは少々異なる制作環境でしたが、苔埜の許可を得て、下松には見学がてら何度か来てもらうことができました。小規模でも整えられたゲッシコンチェルトの作業の様子は、下松にとっても

凄く新鮮な景色だったようで、「わけがわからんけど、めっちゃ面白い」とよく言っていました。
ところで、緊急避難的に私の部屋に転がり込んでいた下松ですが、その後引っ越すことになり、ちょっと寂しくなるかなと思いきや、全くそんなことはありませんでした。奴の引っ越し先は隣の部屋でした(笑)。

思惑

私は、下松が何らかの形でゲッシコンチェルトと関わってくれると良いなと思っていました。ただ、ゲッシコンチェルトは基本的にクラシックなので、下松のロックが求められる機会がそう多くはないことは否定できません。私は器用な下松がその気になれば、ベースも弾けるのではないかと感じていました。なので、自分がもし突発的な耳管開放症の症状でまた弾けなくなった時には、下松に任せることが出来たらと密かに思っていたわけです。

私の勝手な都合で下松を振り回すわけにはいかないとは思いつつ、やはり右耳の調子に波がある時もあって、苔埜にも度々そんな感じの話をしていました。下松にベースをやってもらうかどうかは別として、取り敢えずギターが必要な時には彼女の起用を検討して欲しいことを伝え、後は成り行きに任せることにしました。下松が隣に住んでいて、その辺りの微妙な感じのことをいつでも直接話せる
環境だったのは有り難いことでした。私が弾けなくなったらの話をした時も、下松は静かに聴いて受け止めてくれました。下松が優しくそっと抱きしめてきて、「惚れそうになるからやめろー(笑)」と照れ隠ししたのは内緒です。

機会は巡る

下松にゲッシコンチェルトでギターを弾いてもらう機会は、意外に早く訪れました。私たちが手がける楽曲集の制作でハードなギターが必要な曲があるということで、それなら是非下松に弾いてもらおうということになりました。既にご存知の方もおられるとは思いますが、「隹(ふるとり)」という曲で、下松のロックが炸裂しています。本人は涼しい顔で弾いていましたが、私と絡んでいる普段の様子からは想像もつかない大人なサウンドで、ここ(ゲッシコンチェルト)と抜群の相性だと確信しました。苔埜からも「とんでもないの連れてきたな(笑)」と褒められ、先輩のわいかいねーさんとしても友人としても、凄く嬉しい出来事でした。迷惑掛けっぱなしのゲッシコンチェルトの皆に少しでもお返しが出来たかもしれないし、それに何より皆が下松の力を引き出してくれたという思いもあって、これまでで一番嬉しい瞬間だったかもしれません。

そして苔埜はこう言いました。「住旗が色んなこと考えてくれてるのは有り難いけど、あんまり心配しなくていいんだぞ?これまで通り、住旗にはベースを弾いてもらいたいし、ここでまた下松とも一緒に弾ける方が楽しいだろ?」
苔埜の言う通りでした。私はゲッシコンチェルトに来てから、自分が失ったもの全てを取り戻していました。おまけに友人の新しい展開に一緒に関わることが出来て、少し前までずっと耳管開放症で苦しんでいたことが、まるで嘘だったかのように思えるほど幸せな気持ちでいました。

確かに、私は完治はしていません。今でも右耳に危うさを感じる事もあって、随分和らいだとはいえ、耳の痛みへの恐怖心で鎮痛剤も手放せません。現状を維持するための耳の保護も必要です。自分では制御出来ないものへの不安から解放されることはないと思います。だけど、それは皆同じです。具体的な不安要素はそれぞれ違えど、ほんの少し諦めずにいること、ほんの少し誰かに助けてもらい、自分も誰かの助けになること。そんな平凡且つ、非凡な中で私たちはどうにか生きているのです。

私は今居る場所で、ベースが弾ける間はしつこく居座ってやろうと思っています。誰かにもう辞めてくれと言われても、今度は私がゲッシコンチェルトの支配者(?)になって、さらに居座ってギャフンと言わせてやるつもりです(笑)。
苔埜、宮坂、佐竹、八二右衛門、そして下松も皆、本当にありがとう。
一生付き纏うから、覚悟してくださいな。

                 ゲッシコンチェルト 住旗わいかい

その他の補足・関連事項

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